第一話

兎は侍を演じ始めた

兎村から犬村へ向かうまで

『兎サムライ』第一話の公式案内ページ。本編はXで公開中です。

2026-06-18

あらすじ

兎村では、鐘が鳴る。鐘が鳴れば村から音が消え、家族はそろって地の底の穴へ潜る。兎蔵の一家も、その暮らしにすっかり慣れていた。ある晩、穴の底で息子が聞く——「ずっと穴の中なの?」。兎蔵は、答えられない。

市で大根を売り切っても、手に残るのは二日分。その同じ市に、狐野屋・弥平が「犬村空家案内」の看板を出している。道場は犬に見せる名目、実際に集めるのは兎から取る宿代——弥平はそろばんを弾いて、身分ごと一式の算段を売る。持ち帰った刷り物を前に、娘が言う。「父ちゃん、武士じゃない」。兎蔵は言い返せない。かわりに、刷り物の隅の小さな一行に目を留める——「武士らしく」。問いは、ここで静かにすり替わる。

正面から進む道は、すぐに塞がる。古い具足ひと揃いで五百万貫、兜も修繕も看板も寝床も証文も別勘定。借りて回っても、誰も貸してはくれない。武士の殻は、結局買ったものではなかった。森で小蛇に追われた妻が古い穴へ落ち、骸のかたわらから錆びた具足と折れた太刀、そして大判を拾って帰る。

刀が折れていることに気づいたのは、娘だった。兎蔵は鞘へ押し戻し、ひとつの決まりを立てる——「抜かなければいい」。鍛冶屋では見本の刀すら持ち上がらず、手を切り、刃のない黒塗りの木刀を選ぶ。一か月後、弥平が証文と通行札と犬村の空家の鍵を届けにくる。息子は木彫りの武士を放り出し、父を英雄と呼びはじめる。一家は巣穴も畑も安値で手放し、帰る場所を自分たちで売り払う。

村を出る関所には、蛇がいる。笠の下に縦の瞳、割れた舌。彼らが嗅ぎ分けるのは書付ではなく、金の匂いだ。検分台には具足も、折れた太刀の鞘も、黒い木刀も、証文も、みな並べられる。それでもその朝、一家は関所を越えた。草坡の上、不揃いの具足をまとって兎蔵は名乗る。「今から俺は兎サムライだ」。誰も、それを正しはしない。遠ざかる四つの背に残された足跡を、大きな影が追いはじめる。

登場人物